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SEKKEI 六雅斎石渓

SEKKEI 六雅斎石渓's Profile

Nickname
SEKKEI 六雅斎石渓
Gender
男性
Birthday
10月 09日 /
Job
アーティスト
Present address
東京都 新宿区左門町
Home
北海道
Genre
青春系
Self introduction
現在、四谷でアートコンサルティングの会社を経営しています

そんな関係で世界各地を頻繁に回っております

興味を持つと徹底的に深みにハマりますが
やりきると飽きるのも相当早いようです

ボクは間違いなく元祖オタです
親友たちと一緒に、 アート、アニメ、CM、デザイン業界等でこだわってがんばってきました

フォトグラファーの活動も再開しました
ゲストブック
welcome

Question on 11

身長は?
169.5cm
体重は?
70.0kg(メタボリックシンドローム候補者)
性格は?
超、超、プラス思考!
自分を四字熟語で表すと?
単純明快
タバコは吸う?
今は吸いません。
フォトグラファーの目で見ると喫煙者の女性のお膚はすぐに解るんですよ。
皆さん、禁煙して美しいお肌を保ちましょうね。
そして、あなたのお子さんのためにも禁煙しましょうよ。ねっ!
平均睡眠時間は?
3.5時間
あなたの幼少期は?
北海道のド田舎育ち!
となりの家まで××Kmの広さ

ふろの水は手押しポンプでした
ときどき熊が出ちゃったりして〜

そういう僻地で
ガッコのセンセの息子として
自由にの〜びの〜び、お気楽に育ちました
あなたの青春時代は?
中学時代は放送局で番組制作

このころからアニメーションの制作に目覚め、
ディズニーの動きを研究
月岡貞夫が著した、
当時、唯一のアニメ研究書籍を元に自作を開始しました

高校時代についにアニメーション部を設立、
昨年創立30年を越えちゃいました
ほかに演劇部、美術部、バンドのキーボード、など、など
掛け持ちで走り回っておりました

しかし、
ボクのアニメがあまりにもマニアックだったため、
PARCO主催の第一回日本パロディーコンテストに
招待出品依頼となったのみで
グラフィックデザイナーへ方向転換、美術大学へ

日本経済新聞の新聞奨学生として上京するも大学にはあまり行かず
新聞専売所の所長と結託して広告会社設立
アドプランナーとしてハデに働くがあえなく倒産

食うために大学時代からフォトグラファー&デザイナーで稼ぎました
大学の先生は、写真は高梨豊さん、映画は大林宣彦さん
あなたのお仕事遍歴は?
パイオニア等を顧客にグラフィックデザイナーとして独立
サンリオの出版部とデザイナー契約
キティ、キキララ、マイメロの絵本を担当

どういうわけか現代アートに目覚め方向転換
精神修行や無期限断食を繰り返して放浪の旅に出発
陰陽五行哲学、中医学、東洋占星術等を学びました

いろんな教祖さまに出会い意気投合
いろんな能力をもらいました\(*^ ^*)/

で、なぜか現代アートのギャラリーの総支配人に就任
三井物産のカレンダー作ったり、商品開発担当したり
そのうち専門家として気ままにキュレーターしておりました

しか〜し、人生これから
2008年11月に総支配人を辞職
代官山のIT関係の会社で取締役コンテンツ事業本部長を経た後
現在、四谷でアートコンサルティングの会社の代表をしております
マイブームは?
と、いうか、長年のライフワークが、
歴史学と文献学、そしてオマケで考古学

東北アジアの比較文献学、特に中国と韓国は専門分野です
最近はペトログラフの解読にのめり込んでいます
あなたのルーツは?
先祖は、九州、弥奴(みな)国の王で、
日本書紀、巻の第七、および第十四に
頻繁に登場する一族

中国、呉国と朝廷との貿易窓口と
船の安全運行の祭祀を担当しておりました

その後、
海部一族に宗像三女神の祭祀の権利を奪われ、
一族は
奈良県軽部の村周辺と
越の国の福浦津周辺に移住

源平合戦時は、
平(たいら)方の水軍として参加しますが
あえなく敗退、福浦津に這々の体で帰還

我が一族は、福浦津からさらに南へ移動、
赤住の津に拠点を構え
千年の時を刻みました

水軍であった我が一族は、
江戸時代の平和時に海運業に転身、
北前船、山三を旗印に北方に基盤を築きます

また、先祖より美術品の流通に精通し、
石川県の菩提寺の墓は、
江戸時代にインドから取り寄せた石でできています

景気は上昇し、
明治期にはその利益を下に規模を拡大
日魯漁業株式会社(現、株式会社ニチロ)
の前身を形作りました

しかし、
函館の相馬家からの膨大な借金が
経営を圧迫し、あえなく破産
家業は人手に譲渡されました

その後、一族は全国に散らばり、
我が本家は、東京久我山に犬猫病院を開院

祖父は北海道に軍馬の養成のため移住するが、
北海道で開拓に従事する人々のために
東洋医学による治療院開院を決意
浪越徳治郎に指圧を師事、
鍼灸、電気治療などを駆使する治療師となりました

その後、キリスト教および生長の家で精神修行をし
神霊による治療院を開設し社会に貢献したのです

父は祖父の後を継ぎ獣医大学に進学しますが
北海道の僻地の惨状を憂い僻地教師となりました

複式教育で重要な研究を進めましたが
左翼系の教職員組合と意見が対立

管理職として信念を貫いた父は
過労のため衰弱、若くして殉職いたしました

当家は人がよく純粋で学者肌です
しかしながらどうも金儲けは下手なようです

それでも一族は誇りを持って細々やっており
珍しい名字(本名の方)をその歴史として残しております
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